CONTENTS on line vol.84 2009 ★ New Year  

先駆者たちの大地
いい会社って、なんだろう
東レ株式会社[3402]
オイルショック、プラザ合意による円高、平成不況。成熟産業といわれ、構造不況業種とされた繊維業界で、東レは、度重なる危機をくぐり抜けて、まっすぐに歩き続けてきた。その構造改革の方法は、通常のリストラとは大きく異なるものだった。 写真館 企業の沿革 東レの歴史

東洋レーヨンの設立発起人、三井物産常務安川雄之助
東洋レーヨンの設立発起人、三井物産常務安川雄之助

危機が迫った時にどう対処するか。企業の素顔が見えてくるのはそういう時だ。この冬、激しい嵐が世界を吹き荒れている。円高、株安、需要の減退で、日本のトップ企業も非常事態ともいえるきわめて厳しい状況に直面している。そして、日本のみならず世界のトップ企業がこの非常事態を乗り切るために容赦のない工場閉鎖や人員削減を行っている。

一方で、過去に何度も危機にさらされながら、品格を失うことなく、雄々しく美しく立ち続ける企業がある。それが東レだ。苦境の時にも、同社の経営の基本原則である「雇用を守る」理念を堅持し、自らのスピリッツとするパイオニア精神を忘れることなく、化学技術を基盤とした技術開発力の研鑽に惜しみなく力を注いでいる。時に足踏みすることがあろうとも、経験を糧に、経営の継続性を力とし、それが次の苦境を救うかのように花開くことを確信しながら、化学の力で未来を切り拓き続けている。

いい会社とはなにか。それはおそらく経営指標だけで表すことができるものではない。今一度、考えてみるべき時期が来ている。

国内繊維産業の盛衰

レーヨン糸「蘭光」のラベル
レーヨン糸「蘭光」のラベル

20世紀初頭、人類初の人造繊維であるレーヨンが欧米で本格的に生産開始され、高価な絹に代わって用途を広げていた。このレーヨンの国内生産に向けて、1926(大正15)年1月、三井物産は東洋レーヨン、後の東レを設立したが、その将来性に絶対の自信があったわけではなく、この新会社に三井の商号を与えなかった。しかし、レーヨンは順調に成長を遂げ、第一次、第二次世界大戦前後を通じて、東レは輸出産業として大きく国益に貢献していくことになった。

東レの次の飛躍へのきっかけは、30年代に米国デュポン社が技術開発し「蜘蛛の糸より軽く、鋼鉄より強い」とPRしていた合成繊維ナイロンの国内生産化であった。東レは独自技術により戦前の41年にはナイロン繊維の合成・紡糸に成功していたが、デュポン社の特許を尊重し、これに使用対価を支払うほうがナイロン繊維事業の拡大に有効とも判断。当時の東レの資本金を上回る対価を支払う条件を受け入れ、戦後の51年にデュポン社との技術提携契約を締結した。

東レは、初期こそ、その量産技術の確立や用途開拓に苦労したものの、やがて国内外に販路を広げ、東レのナイロン繊維は戦後日本の経済復興を牽引するほどの大発展を遂げた。特に「戦後、靴下と女性は強くなった」といわれた靴下など衣料から産業用途まで幅広く用途を広げ、日本人の生活文化を変革したといえる。

さらに東レは、ナイロンに次ぐ新たな合成繊維として、57年に英国ICI社からポリエステルの技術を導入した。ポリエステル繊維は綿花に代替する、あるいはこれと混紡することを目的に開発された繊維であったが、そのプリーツ保持性や加工しやすい特性から需要は驚異的に拡大していった。その後、東レは第3の合成繊維としてアクリル繊維の商業生産を開始し、3大合成繊維と呼ばれるナイロン、ポリエステル、アクリルすべての事業体制を確立するとともに、高分子化学の技術基盤を確立していった。

50年代から60年代の東レの収益成長は顕著で、法人所得で日銀に次ぐといわれ、販売するより配給するような営業を「室町通産局」と揶揄された。65年に初めて実施された、大学生の就職人気ランキングで技術系・文科系のいずれでもトップとなったのが東レであった。その一方で、この時期には、最先発の東レを追って市場参入した後発各社も設備を増設。すでに国内の合繊生産は飽和状態に近づいており、東レの社内では、国内の繊維事業は成熟しつつあるという考えが生まれていた。63年にはレーヨン糸の生産を収束、70年には「東洋レーヨン」から「東レ」に社名を変更し、繊維の海外生産化と事業多角化への志向を打ち出した。

レーヨン糸「蘭光」
レーヨン糸「蘭光」

こうしたなか、70年代に入り、事業環境は激変する。71年のニクソンショックによる円高が日本の製造業の輸出競争力を奪い、さらに73年には第1次オイルショックが日本経済を直撃した。繊維産業にとっては、日米繊維戦争と呼ばれた日米繊維貿易の不均衡を是正するための両国政府間交渉の決着が追い打ちをかけた。71年に日米繊維協定が結ばれ翌年に沖縄返還が実現した。これは「糸と縄のバーター」と呼ばれたが、これによって対米輸出を大幅に縮小することとなり、対米輸出依存型であった国内繊維産業は「冬の時代」を迎えることになった。

繊維事業が売上高の大半を占め、輸出比率が売上高の4割を超えていた東レの業績は急落し、75年にはついに経常赤字に転落した。こうして、東レは、今から30年以上前に当時の主力事業であった国内繊維事業の成熟化と輸出環境の激変、またニクソンショックによる円高やオイルショックによる原料価格の急騰といったパラダイムシフトを同時に経験したのである。

この危機的状況に際し、短期的視点からは、経費節減対策の強化、設備投資の繰り延べ、社員の社外への出向などの緊急対策が次々に実施されたが、そこにも特徴があった。希望退職を募るなどの社員解雇は行われなかったのだ。この「雇用を守る」という経営の基本原則は、現在に至るまで堅持されている。また、中長期的視点からは、事業の多角化と国際化、そして新事業の創出が進められていくのであった。

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